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松本文六理事長の一言

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松本文六理事長の一言

災害と医療提供体制(地医研)

災害と医療支援・提供体制

 

         代表世話人 

 

 東日本巨大津波大震災で亡くなられた方々、そしてその御家族の方々に心からお見舞い申し上げます。

 3.11. のこの大災害は今もって復旧・復興の見通しはたっていません。しかも、福島の原子力発電所の放射能漏出事故は、それへの道を益々困難なものにしています。

 ここでは、"原発"に関わる諸問題は差し置いて、標題に関したものにしたい。

 

D-MATの召集と超短期間の帰還

 東日本巨大津波大震災は、3111446分に発生した。その翌12日、厚生労働省医政局D-MAT事務局の要請で大分県の7病院から医師・看護師ら34名が、午前10時に福岡空港に召集され、自衛隊機で宮城県に向かった。

 厚労省の措置としては前例もない程迅速な通知(指令)と行動であったと驚いた。ところが、13日には、被災地への立入りは困難で、現地入りは出来ないと一旦撤収することとなった。大分県D-MATグループは、314日に帰分した。

 大分の地方紙には、『搬送される被災者がいなく、待機状態が続いたので、...』と記されていた。しかし、そのD-MATのある医師は、『津波のせいで、町全体が湖のようになっていた。地震で倒壊した建物の下敷きになった傷病者は逃げ遅れた人たちとともに、津波に飲み込まれてしまい、超急性期の傷病者に対応すべく訓練を受けて来たD-MAT隊員の役割はなかった。死者を除くと、この時期の手当の必要な人は軽症の人だけだ。』と。

 情況を全く把握しないままの功を焦った(と推測するが、...)厚生官僚の大きな失敗であった。

 日本には、明治三陸地震(1896年)、昭和三陸地震(1933年)、チリ津波地震(1960年)、日本海中部地震(1983年)、北海道南西沖地震(1993年)とこの100年余りの間に、津波による厖大な被害が発生している。その時々の総括はなされていなかったのか? と考えざるを得ない。前述のD-MAT医師の言葉通りのことが、ここ100年間の5大津波の時には起こっていた筈である。総括に基づいた教訓と即座に行うべき方策の記録やその申し送りなどは国にも役所にも全くないのか?

 D-MATは、どういう天災や事故の時に召集すべきか?という指針を今からでも作って欲しいものである。

 

2 我々はどういう形で支援ができるのか?

 東日本巨大津波大地震が発生してすでに1ヵ月近く経っている。しかし、未だにその救済→復興の道筋はついていない。勿論、そこには"原発"事故も大いに絡まっていることもあろうが、...

 315日、日本医師会は、J-MATの派遣要請を各都道府県医師会に発していた。しかし、その文書の中には、《災害医療チームは、自己完結型が原則であり、現地等への交通手段はそれぞれ手配していただく。食についても同様の対応をとられたし。》という旨の記載がある。期間は37日間で、大分県から行く場合には、茨城県にと大分県医師会のホームページに記されていた。

 D-MATが撤退したその翌日に、日本医師会は何を血迷ったのか、上記の要請文を医師会員に送付している。D-MATの撤収という情報は伝わっていなかったのか? 一人開業の先生はまず東北まで行けるはずはない。医師と看護師・事務員等を派遣できるのは、少なくとも150床以上の病院でないと困難である。しかしながら、その後、日医から日本病院会や全日本病院協会などの病院団体に医療斑の派遣を要請した気配は全くない。

 気温が低い東北まで、九州から食糧やガソリン・寝具を含めて自己完結型の医療チームを派遣できるのは、日赤・済生会・厚生連・国立病院医療機構や徳洲会のような全国的展開をしているチェーン病院しか思いつかない。そのような病院は、現地の関連病院を拠点にして、医療支援活動を展開できる。しかし、九州からガソリン・食糧・寝具などをバスに乗せて自己完結型で医療支援をするなど到底不可能な話である。315日発の災害医療チーム派遣要請の日医文書以降現在まで、日医からのJ-MATの活動報告や次の支援要請などは全くなされていない。

 316日付の厚労省医政局指導課は、医療従事者の派遣依頼を発出しているが、その返答の〆切日は何と318日正午までとなっていた。同様の文書が317日付の全日本病院協会からの文書が当院にも届いていたが、これの〆切も318日正午までとなっていた。診療に追われて、その文書も見逃す危険性大であるが、その後のこのような医政局からの依頼は全くない。317日付の日本病院会の緊急要請文には、①患者の受け入れ可能情況、②支援可能な物品の記入という形のアンケートがなされていた。

 320日の週に入ると、大分県から自前の救急車でリハ関係者が日本理学療法士協会からの要請を受け、それこそ自己完結型で行ったという。しかし、宿舎もないので3日間車中泊をし、その挙句には支援側が寒さに対応ができず、疲弊して3日間だけ滞在して帰分したという話が伝わって来た。長距離の上、寒さが九州の者にとっては耐えられなく、帰分した折には無事に帰れた! と被災者以上に(?)疲労困憊していたという。

 325日、当方より日本病院会の災害対策本部に、天心堂としては医療班を送りたいが、日本病院会にどちらかから派遣要請は来ていないのか?と問い合わせたところ、《厚労省からの要請で1チーム派遣したが、それ以外の追加要請は来ていない。》という返事だった。

 支援をしたいと考えても、現地の情況は全く把握できない。どうすれば良いのかと、右往左往の心理状態に陥った。326日の日本病院会理事会で、東北各地の病院長からの発言で、私自身はやっと少しばかり状況が判ってきた。

 茨城県の理事からは、今現在、茨城県には医療支援は必要ないと断言していた。日医からそのような情報は全く届いていなかったが、...。又、千葉県の病院で、医療斑を派遣したが、何しに来たのかと言わんばかりの対応で、自ら支援場所を捜さざるを得なかったという報告もあった。

こういう状況下では、義捐金という形の支援しか出来ないのか? と考え込まざるを得なかった。

 現地では、未だに混乱が続いており、現地の的確な情報把握ができなければ当面は行動すべきでないと326日時点で判断した。

 

3 未だに支援の方策は手探り状態

 327日、日本病院会理事会からの帰路、羽田空港で地域医療研究会の前代表世話人の鎌田實氏から連絡があった。現地の情報としての第一報だ。《 今、石巻にいます。震災発生後2週間経つと、避難所生活での疲れが出ていわゆる地域医療が必要になって来ます。今回は、水も食糧もありません。道路も遮断され、ガソリンもないので益々生活が困窮して来ます。その挙句の果てには、高血圧症・糖尿病・心臓病などのくすりの入手さえ困難となり、体が衰弱して来ているのは眼に見えています。しかし、被災地の医療対策の司令塔となっている医師は、あと地域医療は3週間後位でいいと言って、私の言うことに耳を傾けてくれません。》という話があった。

私は、《そうでしょうね。天心堂から当面1チームを派遣しましょう。》という話となり、41日より47日まで天心堂から1チーム派遣した。それに遡る1週間前に天心堂は、日本放射線技師会からの『福島原発事故におけるサーベイ要員派遣』要請で、325日から29日に亘って診療放射線技師を1名派遣した。

42日には、10月の地域医療研究会全国大会in高知に向けての世話人会が東京であり、ここで今回の震災に関する医療支援についての情報整理の機会を得た。

結論としては、①高知のあおぞら診療所の和田忠志医師が、仙台市の先輩医師の診療所を拠点として、地域医療研究会傘下の医療機関で医療支援活動を展開する予定。②41日に天心堂チームと諏訪中央病院チームとが情勢分析と意見交換をする。そして、天心堂チームは涌谷町民医療福祉センターを拠点として47日迄活動する予定。の2点を確認した。又、42日、天心堂チームと亀田総合病院チームが石巻市の医療提供担当官と協議した結果、地域医療・在宅医療支援チームが立ち上がることになったのは大きな成果であった。和田氏が4日に現地に赴き、亀井氏と若山氏が6日に涌谷町に行き、天心堂チームとともに情報交換し、それを事務局に集中するということで散会した。

48日時点で、涌谷町民医療福祉センターを拠点とする活動は、ボランティア看護団体の支援が得られるということで涌谷町での活動は当面はペンディングとなった。そこで地域医療研究会としては①を中心に検討することとし、亀井事務局長と和田氏との情報交換と協議で49日以後の方針を決めることとした。

413日現在、何らかの事情が発生したのか、和田氏と連絡が取れていない。早急に何らかの手を打ちたい。

 

4 災害時の医療はどうあるべきか?

 すでに震災が発生して1ヵ月が過ぎた。しかし、現地の医療がどうなっているのか、全く判らない。九州の地にいて、隔靴掻痒状態である。

 地震大国日本では、これからも大地震・津波の可能性は大きい。過去の経験を国は総括できていない。今回の大災害を機に、大災害下での医療支援・提供体制をどうすべきを構築すべきである。

 官僚は12年で大幅な人事異動の中で、それぞれが責任を取らなくてもいいシステムを築いてしまっているが、今回は、それをストップさせ、"大災害復興院"を立ち上げ、大災害時の医療支援・提供体制の在り方を明確にして、国民全体に公表すべきである。以下、その骨子を提言する。

    ① 津波を伴う場合とそうでない場合を明確に区別した医療支援・提供体制を考える。

災害発生時の人的・物的損傷とその破壊状況を危機管理庁長官(平時に設ける要はない。但し、数年おきに候補者を決めておく)の指令で、自衛隊(災害救援隊)機を使って迅速に把握させる。医療面では病院の全壊・半壊の実態、活動可能な病院を調べあげる。それに伴っての搬送体制の確保とD-MATの役割の明示(津波の場合、D-MATの訓練成果を発揮することは困難であることも含める)が必要である。

②の調査に伴って、地区・地域別に医療支援の司令部を配置し、そこには医師のみでなく行政官も同時に国から派遣し、その地区と地域の医療に関わる司令塔の役割を持たせる。この司令部の医師は、大病院の医師でなく、現地を中心とした中小病院の災害医療に関する訓練を受けた医師23人が望ましい。それは、地域医療に精通しているからである。大病院の医師は専門分化しすぎていて、このような場面では対応が出来ない。急性期の患者を受け入れるために病院で待機してもらえれば良い。当然ながら、他の医療職の代表(地域の)及び地域の行政官の参画は必要である。救助・救済・復旧・復興段階までの役割分担のためにも必須である。

医療チームの派遣を要請する場合には、日本医師会でなく、病院団体と全国にチェーンを持っている病院(赤十字、済生会、厚生連、徳洲会、民医連)等の方が好ましい。

   日医の会員はその殆どが1人開業医師で、日常診療を放棄して現地に出て行くことは不可能だから。

  ⑤ 看護協会や理学療法士会などの医療従事者の団体派遣を行う場合には、現地の県組織を通して、③の司令塔の指示に従うことを原則とすべきである。

  ⑥ 上記の流れでも、なお、医療支援やボランティアが必要な場合には、より広く呼び掛ける必要がある。この場合、○○県の△△地区には、××のことで困っているので、医師及び○○職の人が何チーム必要であるということを国の責任で全国に広報すべきである。しかし、この場合も③の司令塔の指示を前提とするのは当然である。

 

国家規模での危機管理システムを創り上げなければならない。

 明治維新、第2次世界大戦後の日本という歴史の中で、今回の巨大震災は、"原発"事故も

併せて考えると、市場経済原理と経済界至上主義の日本を根本から見直すことが要請されてい

ると判断すべきであろう。そして、今回の大震災は日本人に3度目の覚醒をもたらし新たな3

回目の開国を促している。新たな日本の文化と政治・経済・社会を創造する機会を提供してく

れたものと私は考えたい。

       2011413日記

    (大分市/社会医療法人財団 天心堂 理事長)

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